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前村珈琲喫茶室Hiroshi Maemura

コーヒーの淹れ方は自由。

正解なんてない。

毎日、一杯一杯、味が違う

珈琲は、雨と晴れで全然味が変わるものだから、湿気や気圧の高い低いで味が変わるんですよね。

 

まずは最初にテイスティングで淹れる珈琲。

毎日、同じ条件で淹れるのがあって、それをベースにして「今日はこの感じか」と掴む所から1日が始まります。

 

そこで調整を決めて、今日みたいに一日中ずっと雨だったら変える必要はないけれども、その日の天候の変化に依って変えてます。

昼と夜とでも違うんです。

 

ここの場合は、外は湿気があっても中は無いという感じなので、そういった部分も考えながらやっています。

お湯の温度で調整したり、色々ですねやり方は。

色々な条件を付け加えるというか変えるというか、そんな感じで淹れてます。

 

毎日、1杯1杯、味が違う、基本同じ物は絶対出来ません。

 

ブレンドだから、四種類の豆が配合されてたりするとその全部が均等に出るというのは100%あり得ないんです。

 

だから、1杯分の豆の量では絶対に淹れない。

なぜなら混ざり具合にまとまりがなくなるからです。

豆が多い方が、味にまとまりがある。

ですからここのブレンドの場合は、絶対2杯だてしかしません。

 

1人でお客様がいらっしゃった場合、2杯分淹れますが残りは有効活用します。

 

『豆は贅沢に使え』と言われて来ましたから。師匠に。

珈琲人生のスタート

“’COFFEE HOUSE 下関異人館”

異人館に初めて足を踏み入れたのは、23歳位の時でした。

この話しをするの初めてで、あまり言いたくないんですけど(笑)映像に詳しい友人が居て、18歳からずっと自主映画を作っていたんですよね。実は。

で、23歳の時に、英国領事館を撮影のロケ地として使わせて貰えないか頼みに行ったのが初めてです。

 

それまで珈琲はインスタントにクリープと砂糖を入れて甘くしないと飲めなかったんですよね。

珈琲に興味は無くて、当時あまり珈琲は飲みませんでした。

 

だから、異人館では、紅茶を頼みました。

そうしたら紅茶をサーブ(ウェイトレスさんが席まで紅茶を注ぎに来てくれる)してくれたんです。

あの時代にしては凄く珍しくて、ビックリしました。

 

そんな異人館の中での撮影は、自分達的に格の違いが有りすぎるから、店内での撮影を頼むのはやめようねってなって、

外のテラスで冬でしたから「誰も居ないからテラスで」って撮影させて貰ったのが異人館のマスターとの出会いでした。

 

異人館に入るきっかけは、“珈琲が好きだから”とか“珈琲が飲みたい”とか“珈琲を知りたい”とか全く関係なくて、

只、24歳の時に勤めていた会社を辞めて、次の就職先を見付ける迄のちょっとしたバイトのつもりで入ったんです。

 

それまでは、工業高校出身なので、神戸製鋼の下請けにいて機械を扱っていました。ガチガチの工業系。

職安に行った時に、沢山の募集が有る中で、自分の知ってる所で、どうせやるなら180度違う仕事をしてみたかった。

なぜなら、バイトと思ってましたから。

そしたら、たまたま異人館の募集が有ったんです。

 

社員としても就職先を探さないといけませんでしたので、面接の時、異人館のマスターには「3ヶ月間だけ面倒を見て下さい」とお願いしました。

自分の他に、もう1人面接に男の人が来ていて、その人はキチッとスーツを着て優等生みたいな感じでしたけど、その正反対で、自分はカジュアルな感じ。

良く私を選んでくれたなぁと思いました。なにせ人間性が出鱈目でしたから(笑)

 

マスターの中では、「凄く面白いヤツだな~って言う感じでウチで遊んでみるか?」っていう感じだったらしいですけど。

そんな感じの出会い。出会いって不思議ですよね。

そしたら2ヶ月後位に、マスターが病気で入院するという事になって、突然店を任される事になったんです。

マスターから「カウンターに入って。珈琲を教え込んでいくけぇ」と言われ鍛えられ、

「何でこんな事まで言われて珈琲を淹れなきゃならないんだろう。バイトなのに。」という拒絶反応が最初有りました。

 

その当時、UCCの下関支店が有って、支店長と営業の方が珈琲を淹れられるんで、そういう方達に助けて貰いながら、

UCCと私が一緒に異人館を守っていくという事になった。

 

それでも、まだその時は「何で俺がしないといけないんかねぇ。大体、1、2ヶ月でこんなんやらす?」とUCCの人達にブチブチ愚痴ってました。

そしたら、10歳位年上のUCCの営業の人に「1、2ヶ月でこれをやらせて貰えるって考えたらどう?」と言われた時に自分的にガツンと来て、何も反論出来なくなりました。

 

異人館は珈琲一杯が、あの当時で500円。

喫茶店で基本300円の時代でしたからね、だから格式の高さは全然違ってました。

英国領事館という格の違いも含まれていたんだと思います。

 

カウンターに入ってやってるうちに、不思議とそれが普通になってきます。若いから怖い物知らずでしたね。

最終的には社員になって、一応店長の肩書きを貰って。店を任されるという状態に。マスターがあちこち飛び回る人でしたから。

結局3ヶ月の予定が、24歳〜30歳の6年間勤めました。

 

異人館をリニューアルするのを機に、あの例の名物のカフェオレが登場しました。一杯1000円。

ダージリンティーが1200円、ブルーマウンテンが1200円、カフェロワイヤルが2000円、そんな喫茶店でした。

1000円、1000円、と考えて淹れるから、淹れるのも上達しますよね。

 

マスター自身がね「カウンターマンはショーマンであれ」って教えられてきたらしく、パフォーマンスも含めて見せるっていう事は必要だよって。

その頃は、もう責任感もありました。その当時は私がカフェオレを全部淹れてたんです。

喫茶店の社員としては毎年給料が昇給していくし、そんなに多くは無いけれど賞与も有った。今考えると、優秀な店だったなと思います。

珈琲と文化

私が異人館を辞めたのは、バブル期の終わり頃でした。バブルが終わる手前で辞めて、工業系のサラリーマンに戻りました。

第2子が産まれたのと同時に、やはり家庭を守らないといけないから、安定した会社で会社員として働いた方が良いと思ったんです。

 

勿論、独立はしたかった。珈琲で、自分で店を持ちたかったなという想いはありました。

でも、諦めたという事ではなかったんです。家庭を守るのが第一だから。その当時は開業資金も無かったですし。

夢は捨てずに、珈琲は続けて行きながら、まずお金の為に働くというのが、この30歳の転職でした。

 

神戸製鋼のコネクションが沢山あったので、以前と同じ様な神戸製鋼の下請けの会社に入って、そこで11年間、家庭を守る為に神戸製鋼の工場の中で働きました。41歳まで。

でもそれをしながらも空いた日に珈琲を淹れる活動はずっとしていました。

 

【Q.利益を取らずにですか?】

そう。取らずに。それが出張喫茶の原点になりました。

自分の家でもやっていたし、人から頼まれたりして、元異人館というのがどうしても付いて回りますから。

 

町内のイベントの時に珈琲を淹れに集会場に行ったりも。

絶対お金は取れない。あくまでも趣味でしたから。

珈琲を淹れるのを辞めると絶対腕は落ちますから、常に珈琲を淹れる環境は作っていました。

 

そういう時代が41歳まで。そんな風に、珈琲の活動を辞めなかったから今に繋がってるのかも知れないですね。

珈琲歴25年。

 

【他に趣味は?】

沢山有りました。

映画を撮る事、演じたりもしてました。アマチュア的な誘いもあって舞台の演劇の音響とか裏方も含めて舞台立つのもやってましたし、後は、音楽活動、バンド。

 

それと、ここに辿り着く事になった一番重要な事なのですが、『近代建築研究所』と言って、下関市内の古い建物を研究するという活動を異人館の頃から始めて、ずっと一人でやってました。

 

近代建築研究所の活動は当時にしては珍しく新聞には良く載ってましたね。

古い建物が壊されますとか、古い建物の話を耳にすると、「近代建築研究所」だからその建物に出向いて行ってその建物の人と話すんです。

エンターテイメントといったものを自分の中で持っていましたから、どうしてもただそこを調べて文章にまとめて終わりというのではなく、

何か知って貰いたいという想いがありましたので、話が付いた所ではイベントを打っていきました。

その当時にしては珍しい活動でしたから新聞社が来て結構拡がっていったんですよね。

 

あの頃は、スクラップ&ビルドで古い建物はどんどん壊されていく時代が来ていました。

 

もう今は取り壊されてしまった“旧山陽ホテル”の屋上でも、回顧録を元に、当時の山陽ホテルの制服(和服に割烹着)を再現したりしてイベントをやりました。

 

それから、“南部町郵便局”あそこで一番最初にイベントしたのがウチなんですよ。耐震工事する前。

ウチがイベントで使ってから、中国郵政局が耐震工事をやって地域の皆さんに使って貰おうと言うことになりました。

建物が90周年、南部町郵便局という名前になって20年目の事でしたね。

 

そういう時に局長さんと何かやろうかという話になって、ヨーロピアンスタイルのカフェ、珈琲を。

中庭があんな感じですから、ギターコンサートと珈琲を出して中庭でやりました。

今はどう補修されているか分からないけど、当時は、むき出しでしたから、中庭見た時ビックリしました。ヨーロッパじゃないかって。

 

そういうイベントを異人館の時からやり初めて、ずっと11年間の間、続けてるんです。

珈琲の活動とそういう文化的な活動をね。

 

でも、40歳の時に断捨離で趣味は「近代建築研究所」も含めて、全部やめました。

一旦全部辞めてみないと、本当は自分が何をしたいかが分からなくなっていたんです。

 

でも、どうしても『珈琲』だけは捨てる事が出来なかった。

自分には、珈琲しかなかったんです・・・。

元小野分校校舎との出会い

リーマンショックで、会社が傾いたのが、41歳の時。

丁度、そのタイミングで、小倉のレストランが新規出店するからと声が掛かり、そこの店長になったんですが、親会社の経営がおかしく、しばらくして辞めた。辞めて間もなくそこは潰れましたね。

 

その後、別の店長として声を掛けて貰ったお店に、勤めている頃に

この建物(旧小野分校)が空いたという情報を一緒に街歩きなどをやっていた仲間から貰ったんです。

 

ここ小野は私の故郷でもあり、祖父や祖母、大叔父や大叔母が通ったのもこの学校でしたから、思い入れは格別のものが有りました。

先祖が眠る土地で喫茶をしたかったし、御先祖様への想いが強過ぎるんですよね。

 

それに加えて、木造校舎が大好きでしたから、近代建築研究所をやってる時にこの建物を見つけて、「大正時代の校舎なんや!やるならここだな、ここで珈琲を淹れられたら良いな」とずっと思っていたんです。

 

それから、校舎を管理されている“ひばり会”さんにお願いして、イベント的に、不定期で珈琲を淹れさせて頂いてました。

 

最初は不定期だったその活動が実を結び、

去年の12月1日から常設の喫茶室になりました。

イベントの時からを含めたら4年目の事です。

 

子供に手が掛からなくなったので、これからはコーヒー1本で。

自分の接客スタイルを、自分1人で出来る場所で表現してみたくなったんです。

 

奥さんには、心配を掛けてます(笑)

 

今は、校舎を元の姿に戻す『復元』をじっくりと時間を掛けて、自分のスタイルで丁寧にやっています。

まだまだ、時間はたっぷり掛かると思いますが、自分なりのこだわりを持って楽しんで取り組ませて頂いてます。

[Interviewer]Tsugu

[Photo&Editor]YASUMURO

【前村珈琲喫茶室】

 場長 前村 宏

 

 Facebook:https://www.facebook.com/maemuracoffeekissaroom

 

 *場所等の詳細はオーナー様のご希望に依り、掲載しておりません。

   上記Facebookからお問合せ下さい。